運営者 Bitlet 姉妹サービス
使い方 FAQ このサイトについて | login
395件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

2019-04-16 第198回国会 衆議院 財務金融委員会 第11号

他方、これが完全に解決するかといえば、日本とアメリカとの間の貿易摩擦というのは、一番最初は多分、佐藤内閣のときのいわゆる日米繊維交渉田中通産大臣あれが最初だったと思いますが、あれから今日に至るまでずっと、どれくらい長くかかってきたかといえば、間違いなく六十年近くかかっているんですけれども。  

麻生太郎

1996-05-16 第136回国会 参議院 外務委員会 第11号

一九七二年三月二十三日、これは当時の田中通産大臣ですが、「憲法精神にのっとりまして、国際紛争武力をもって解決をしないという精神で、日本から輸出をされた武器国際紛争で使われるということになれば、これは間接的なものにもなると思いますので、武器というものの輸出ということに対しては、非常に慎重でなければならない」と述べられています。

立木洋

1996-04-16 第136回国会 参議院 予算委員会 第7号

これ通産大臣にお聞きしたいと思うんですけれども、過去に、繊維交渉のときに田中通産大臣が、繊維業者日米交渉国家政策としてだめになった、機の機械を全部国で買い上げようと言ったことがありますな。一業界が全部壊滅する場合には、国家資金をそこに投入したことがあるんですよ。  今度の金融機関だって、国の経済を考えますと、投入してもそんなに僕はおかしくない。

服部三男雄

1994-11-01 第131回国会 衆議院 科学技術委員会 第3号

そのときの昭和四十七年四月の通産大臣長官のおやじさんの田中通産大臣それから四十九年三月、予算委員会で集中問題を随分論議をしました総理は、田中総理であったわけであります。  あれから満二十年以上の日がたっておりますが、今、私の若狭湾、福井県は第二の集中化への道を歩むかどうかという岐路に立っております。それは、先ほどお話がありましたが、日本原電敦賀一二、四号の増設の調査を知事に要請している。

辻一彦

1992-03-26 第123回国会 参議院 商工委員会 第4号

私はそこで申し上げたいんですけれども、土砂川の無重力実験構想、あれは成功したと思うんですよ、当時の田中通産大臣の教訓を得まして。ちょっと余談になりますけれども、当時、田村運輸大臣時代函館ドック造船対策がございまして、本来なら函館ドックは今日存在しなかったんです。造船不況のときに時の田村運輸大臣が三万二千トンの船を函館に緊急発注したんです。

対馬孝且

1992-03-26 第123回国会 参議院 商工委員会 第4号

私はまだバッジをつけていませんでしたが、当時は田中通産大臣で、副議長をやった今は亡き岡田春夫大先輩と一緒に私は田中邸に行ったことがあるんです。そのときに田中通産大臣が、後の総理がこう言ったことがあるんです。炭鉱というものは、これはもちろん物体エネルギーですからやっぱり限界があるんだ。だから、限界があるということは山の寿命が来るんだ。それは君ら専門家だからわかっているだろう。

対馬孝且

1987-08-27 第109回国会 参議院 外務委員会 第3号

また、かつての田中通産大臣も、武器輸出の問題に関連しては、これは憲法精神にのっとって国際紛争武力をもって解決をしないという精神で、日本から輸出された武器国際紛争で使われるということになれば、これは間接的なものにもなると思いますので、武器というものの輸出ということに対しましては非常に慎重でなければならないということは当然でありますというふうに、いろいろとこれまでも指摘が明確に国会の中でなされているわけです

立木洋

1987-07-13 第109回国会 衆議院 予算委員会 第2号

そこで、あなたと御相談をして、前の年は田中通産大臣相談をいたしました。そして、それは、民間貿易はある程度進んでおりましたが、これではいかぬ、だから私は、日本の通産省から役人を出しなさい、向こうから役人を入れましょう、どうですか。あなたは、よかろう。金日成主席が受け入れるならば出すよというお話でございました。思い起こしていただきたいのです。そこで私は参りまして、金日成主席と話をしました。

川崎寛治

1986-11-25 第107回国会 参議院 産業・資源エネルギーに関する調査会 第3号

田中通産大臣私も一番憶えがあるのは三菱美唄、これは時間がありませんから端的に申し上げますけれども、当時は造幣工場を持ってくるとか、専売公社を持ってくるから対馬君心配するなと、君、あんな危ないところに働くことないよなんてうまいことばかり言ったけれども、何一つ出ないで、三菱美唄炭鉱へ行ったら、私もこの間六月に行ってきたんだけれども、今もう犬一匹、猫一匹住んでないからね。

対馬孝且

1986-04-21 第104回国会 衆議院 決算委員会 第6号

主力産地代表も各々の選出国会議員に対し強力な働きかけをおこなった」こと、あるいは「四十六年十月、奥田敬和安田隆明先生のご紹介で、撚工連小田理事長及び土田副理事長事務局が同道し早朝、目白台の田中角榮通産大臣(当時)の私邸を訪問」したこと、そして、「五十八条規制設備は申すまでもなく五十八条に入っていない設備や、中小零細の未組織の弱い立場の業界設備も対象にして欲しい」と願ったこと、それから、「田中通産大臣

中川利三郎

1986-03-20 第104回国会 衆議院 決算委員会 第3号

田中通産大臣は、二十年間の異民族統治のもとから返ってくる記念事業として、その種のものは、すなわち国立劇場、そういったものは非常に意義がある、こう述べております。これが最初なんです。  それから同じく五十年、これは一九七五年です。五月二十二日、衆議院沖特委で私が質問しました。そのとき植木開発庁長官、もちろん今でも御健在であります。

瀬長亀次郎

1985-05-31 第102回国会 衆議院 大蔵委員会 第28号

ですから、私はあのときに田中通産大臣、中曽根通産大臣当時にそのことについていろいろと御相談をしたことも申し上げましたが、つまり十数年間の歴史の歯車が逆戻りしたということについて、私たちは、今南北朝鮮が動き出しているということについて、やはり最も深い関係国としては十分配慮しながら、今後のその進展について我々としては努力をするということについて大変必要じゃないかということを、きのうの会談の結果を見ながら

川崎寛治

1985-04-22 第102回国会 衆議院 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 第5号

これはこの間も申し上げたことなのですが、ちょうど田中通産大臣、中曽根通産大臣時代日中国交回復を契機に、国交未回復の国との間にもやろう、こういうことで積極的に動いた時期があるわけです。これについては、私が田中通産大臣とも、中曽根通産大臣とも話し合って、ピョンヤンに行き、お互い意思の交流というか、それを両政府間でやったこともあるのです。

川崎寛治

1985-04-12 第102回国会 衆議院 大蔵委員会 第18号

実は、四十七年は田中通産大臣それから四十八年は中曽根通産大臣、私、二回ともちょうど向こうと往復をしておりましたときに、日中国交回復直後にこれは組んでもらったわけですよ、我々としては。そして組まれたんです。しかし、ずっと実行されないまま来ているのです。これを実行することが、南北朝鮮対話が今進みつつありますが、そういう中でその南北の対話に逆行すると思うか。

川崎寛治

1985-04-12 第102回国会 衆議院 大蔵委員会 第18号

川崎委員 それじゃ、大事な大臣の皆さんですから、ちょっと経過を申し上げておきますと、田中通産大臣、中曽根通産大臣のときも、お互い両方が行き合えるようならよろしい、大いに両方役人同士を交流させようというところまでいったんですよ。ところが金大中さんが拉致をされて、それ以後ずっと歴史はひっくり返ったままになっているのです。ところが、そういうものが命ずっと整理されつつあるわけですね。

川崎寛治