2021-02-26 第204回国会 衆議院 予算委員会第六分科会 第2号
その金がないというので、当時の田中通産大臣が、何と三年間で五百億円ぐらいの予算をつけているんですよ。ですから、当時の予算規模は今の三分の一ぐらいだと思うから、考えると、今のお金にすれば一千五百億円ぐらいのお金を投じているんですね、その繊維業界に。
その金がないというので、当時の田中通産大臣が、何と三年間で五百億円ぐらいの予算をつけているんですよ。ですから、当時の予算規模は今の三分の一ぐらいだと思うから、考えると、今のお金にすれば一千五百億円ぐらいのお金を投じているんですね、その繊維業界に。
それぞれの、田中通産大臣にしても中川先生にしても厳しい交渉をしたと思っておりますが、今回の日米の貿易交渉も、決して最初からライトハイザー代表との間で意見が一致していたわけではなくて、相当、何というか、隔たりがある中で交渉を進めました。
他方、これが完全に解決するかといえば、日本とアメリカとの間の貿易摩擦というのは、一番最初は多分、佐藤内閣のときのいわゆる日米繊維交渉、田中通産大臣、あれが最初だったと思いますが、あれから今日に至るまでずっと、どれくらい長くかかってきたかといえば、間違いなく六十年近くかかっているんですけれども。
○国務大臣(平沼赳夫君) これに関しましては、一九七七年、田中通産大臣のときに出、それから更に一九八八年に新たなそういう形で通達が出ているわけでございまして、そういう関係からいえば連続して生きていると、こういうことでございます。
一九七二年三月二十三日、これは当時の田中通産大臣ですが、「憲法の精神にのっとりまして、国際紛争は武力をもって解決をしないという精神で、日本から輸出をされた武器が国際紛争で使われるということになれば、これは間接的なものにもなると思いますので、武器というものの輸出ということに対しては、非常に慎重でなければならない」と述べられています。
これ通産大臣にお聞きしたいと思うんですけれども、過去に、繊維交渉のときに田中通産大臣が、繊維業者が日米交渉で国家政策としてだめになった、機の機械を全部国で買い上げようと言ったことがありますな。一業界が全部壊滅する場合には、国家資金をそこに投入したことがあるんですよ。 今度の金融機関だって、国の経済を考えますと、投入してもそんなに僕はおかしくない。
そのときの昭和四十七年四月の通産大臣は長官のおやじさんの田中通産大臣、それから四十九年三月、予算委員会で集中問題を随分論議をしました総理は、田中総理であったわけであります。 あれから満二十年以上の日がたっておりますが、今、私の若狭湾、福井県は第二の集中化への道を歩むかどうかという岐路に立っております。それは、先ほどお話がありましたが、日本原電が敦賀一二、四号の増設の調査を知事に要請している。
その直前、オイルショックのとき等ですと、昭和五十二年は石田労働大臣、田中通産大臣に御出席をいただいた、あるいは五十四年は中西通産政務次官、五十六年は野田通産政務次官、若杉生活産業局長等々にも御臨席をいただいて、いろいろな危機、困難に取り組む場として機能してきました。
例えば六十七国会では、日米繊維交渉が国会決議に反するとして当時の田中通産大臣は不信任案を提出された、こういう経緯があります。国会では三度にわたって衆参で米の例外なき関税化反対という決議をしてきた。この両院の意思というのは非常に重いものだというふうに思います。
私はそこで申し上げたいんですけれども、土砂川の無重力実験構想、あれは成功したと思うんですよ、当時の田中通産大臣の教訓を得まして。ちょっと余談になりますけれども、当時、田村運輸大臣時代に函館ドックの造船対策がございまして、本来なら函館ドックは今日存在しなかったんです。造船不況のときに時の田村運輸大臣が三万二千トンの船を函館に緊急発注したんです。
私はまだバッジをつけていませんでしたが、当時は田中通産大臣で、副議長をやった今は亡き岡田春夫大先輩と一緒に私は田中邸に行ったことがあるんです。そのときに田中通産大臣が、後の総理がこう言ったことがあるんです。炭鉱というものは、これはもちろん物体エネルギーですからやっぱり限界があるんだ。だから、限界があるということは山の寿命が来るんだ。それは君ら専門家だからわかっているだろう。
また、かつての田中通産大臣も、武器輸出の問題に関連しては、これは憲法の精神にのっとって国際紛争は武力をもって解決をしないという精神で、日本から輸出された武器が国際紛争で使われるということになれば、これは間接的なものにもなると思いますので、武器というものの輸出ということに対しましては非常に慎重でなければならないということは当然でありますというふうに、いろいろとこれまでも指摘が明確に国会の中でなされているわけです
そこで、あなたと御相談をして、前の年は田中通産大臣と相談をいたしました。そして、それは、民間貿易はある程度進んでおりましたが、これではいかぬ、だから私は、日本の通産省から役人を出しなさい、向こうから役人を入れましょう、どうですか。あなたは、よかろう。金日成主席が受け入れるならば出すよというお話でございました。思い起こしていただきたいのです。そこで私は参りまして、金日成主席と話をしました。
田中通産大臣、私も一番憶えがあるのは三菱美唄、これは時間がありませんから端的に申し上げますけれども、当時は造幣工場を持ってくるとか、専売公社を持ってくるから対馬君心配するなと、君、あんな危ないところに働くことないよなんてうまいことばかり言ったけれども、何一つ出ないで、三菱美唄炭鉱へ行ったら、私もこの間六月に行ってきたんだけれども、今もう犬一匹、猫一匹住んでないからね。
私も、京都の西陣織の問題で、兵庫県にも織機問題で福田総理大臣のときに、私一対一で地元の要望とかでどう対応したらいいのか、当時の田中通産大臣にも、三年間、地元がやかましく言いますので……。で、こういう事件がばっと起きて、もうえらいことをしているなと思ったわけです。
主力産地代表も各々の選出国会議員に対し強力な働きかけをおこなった」こと、あるいは「四十六年十月、奥田敬和、安田隆明両先生のご紹介で、撚工連小田副理事長及び土田副理事長と事務局が同道し早朝、目白台の田中角榮通産大臣(当時)の私邸を訪問」したこと、そして、「五十八条規制設備は申すまでもなく五十八条に入っていない設備や、中小零細の未組織の弱い立場の業界の設備も対象にして欲しい」と願ったこと、それから、「田中通産大臣
これは、私はこういうことを言いたくないのだけれども、かつて、当時の田中通産大臣時代に私もこれでお会いしたことがあるんだが、三菱美唄炭鉱が閉山になるときに、随分うまいことをおっしゃったのだ。
田中通産大臣は、二十年間の異民族統治のもとから返ってくる記念事業として、その種のものは、すなわち国立劇場、そういったものは非常に意義がある、こう述べております。これが最初なんです。 それから同じく五十年、これは一九七五年です。五月二十二日、衆議院沖特委で私が質問しました。そのとき植木開発庁長官、もちろん今でも御健在であります。
ですから、私はあのときに田中通産大臣、中曽根通産大臣当時にそのことについていろいろと御相談をしたことも申し上げましたが、つまり十数年間の歴史の歯車が逆戻りしたということについて、私たちは、今南北朝鮮が動き出しているということについて、やはり最も深い関係国としては十分配慮しながら、今後のその進展について我々としては努力をするということについて大変必要じゃないかということを、きのうの会談の結果を見ながら
これはこの間も申し上げたことなのですが、ちょうど田中通産大臣、中曽根通産大臣時代に日中国交回復を契機に、国交未回復の国との間にもやろう、こういうことで積極的に動いた時期があるわけです。これについては、私が田中通産大臣とも、中曽根通産大臣とも話し合って、ピョンヤンに行き、お互いの意思の交流というか、それを両政府間でやったこともあるのです。
実は、四十七年は田中通産大臣、それから四十八年は中曽根通産大臣、私、二回ともちょうど向こうと往復をしておりましたときに、日中国交回復直後にこれは組んでもらったわけですよ、我々としては。そして組まれたんです。しかし、ずっと実行されないまま来ているのです。これを実行することが、南北朝鮮の対話が今進みつつありますが、そういう中でその南北の対話に逆行すると思うか。
○川崎委員 それじゃ、大事な大臣の皆さんですから、ちょっと経過を申し上げておきますと、田中通産大臣、中曽根通産大臣のときも、お互いに両方が行き合えるようならよろしい、大いに両方の役人同士を交流させようというところまでいったんですよ。ところが金大中さんが拉致をされて、それ以後ずっと歴史はひっくり返ったままになっているのです。ところが、そういうものが命ずっと整理されつつあるわけですね。